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西邑 由記子さん

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100%の頑張りが満点介護とは限らない。頑張りすぎたことで見えた光と影
  結婚は小さな目標。大きな目標は自分用の老人ホームを建てることだという。
「だからそのために一生懸命仕事をしたいなと思っています。自分が入るためのね。もう入居希望者も何人かいるんですよ。これ本気です(笑)」。


 その活動からは、生活の波乱を微塵にも感じさせない強さを持つ芸能人は少なくない。今回お話を伺った大沢逸美さんも、またその一人であった。

母=病気、がやって来た!?

 両親の元を離れ、北海道から単身上京、16歳でデビューした大沢逸美さん。仕事が軌道に乗っていた20代半ばにして父親が突然ガンを宣告されて他界。北海道に一人残された母親は一級障害者の認定を受ける身体。
「父が亡くなったとき、母は糖尿病が悪化して入院していたんです。その母を呼び寄せることは当然ですが、当時、母は医師に“病気の総合商社”といわれるほど。母が来るというより、どちらかというと病気が来るという感じでしたね」。
 母親の治療が一段落し上京するまでのひと月の間に、転院先を探し、通院しやすい場所に転居先を決め、区役所に足を運び、もちろん仕事をこなす。その行動力に感嘆すると、「若さのおかげだった」と明るく笑う。こうして、その後12年間続く母と娘の二人暮らしが始まった。

不在中にかぎって
人の手が必要になる現実

 病院とは離れられない身体状況。仕事との両立は困難に思えるが、「当初はまだまったく歩けないわけではなかったので、目が離せないという状況ではありませんでした。舞台で家を1カ月空けることもありましたし、撮影で地方に行くこともありました。知らないうちに、母はご近所の方と交流を広げていたようで、その方々に協力して頂けましたから、私の生活に大きな変化はなかったんですよ」。
 しかし、不安が無いわけではない。長期不在のときに限って救急沙汰になることもしばしば。あるときは、地方での公演直前に携帯電話が鳴り、母からのSOSを察した大沢さんは、都内の救急センターに連絡をとりながら大事を乗り越えたという。
「あの遠隔操作は我ながら“凄いことが出来た”と思いました」。
 舞台が始まる前に、こんな大仕事をやってのける度胸に驚かされる。しかし、それは単なる度胸ではなく、日頃の準備や配慮のたまもののようなのだ。
 多くの病気をもつ母親が誰のお世話になるか分からない。そのときに備えて、人の目につく場所に貼っていた母についての注意書きを書いた紙が、不測の事態に役立っていたのだ。

母は私が看るしかない!?

 東京に移り住む際、検査入院したが、その印象が悪かったことで母親はその後も入院を嫌う。介護保険制度の施行以前は、通院の付き添いや不在中の身の回りの補助を家政婦に頼んでいたが、視聴覚の不自由さを理解して対応してくれる人に巡り会えず、何度か試してみたが断念。施行後、さっそくヘルパーにお願いしたものの、家政婦を依頼した頃の不信感を払拭できなかったという。



ひょんなところから、母が書き残した日記のような手紙が現れる。そのたびに母を近くに感じる大沢さん。いずれも「ありがとう」という感謝の言葉が…。

「健常者より敏感になっている母は、不安な気持ちから他人への不信感が強かったんですね。母にとってストレスだったようで、母の方から『もう嫌だ』と言い出したんです。そこで次の方を探せば良かったんですけど、“やっぱり他人はダメなんだ、お母さんには私しかいないんだ”と思ったのが、イコール介護の始まりでした。できる限りのことは私がやって、できないことは仕方がないからご近所の方々に甘えてということにしたんです」。



頑張りすぎが吐かせた暴言

 何とか生活と仕事の折り合いをつけて頑張っていたが、2000年の春、母親が突風にあおられて転倒し、大腿骨を骨折して半年間入院。まったく歩けなくなってしまったことを契機に、母親中心の生活へと一変する。
「最期の1年間はかなり悪かったので、泊まりや地方の仕事は控えさせてもらいました。東京での仕事は限られていますし、世間では辞めたと思われていたでしょうね。収入の心配はあっても、母と一緒にいたいという思いの方が勝っていました」。
 夜は2時間おきに呼ばれ、眠れないまま朝食づくり。糖尿病と腎臓病食の、対応が正反対になる食事の献立に頭を使う日々。しかし、追い打ちをかけるように末期癌で余命宣告を受けてしまったのだ。大沢さんにとって、精神的に一番辛い時期だった。
「一度だけ母の前でキレちゃったんです。何もできない自分が疎ましくなったんですよ。何しろ希望があるわけではなく、待っているのは母の死。その辛さに参ってしまったとき、母に向かって“私を作らなければ、こういう思いをする私は存在しなかったのに、なんで生んだのよ!”と最悪の言葉をぶつけてしまいました。もう、ストレスが身の丈を超えていたんですね。そのときだけです、母のことで泣いたのは。余命を宣告されて、最終入院する前でした」。


感情が爆発した夜
何かが変わった

 その夜、タイミング良く電話をかけてくれた友達がいた。涙声に気付いたその友達に初めて母の癌のことを打ち明けた。
「認めたくなくて、癌のことを誰にも話していなかったんです。でも、話したことによって体中からサァ〜ッと何か出ていって、身体がフッと軽くなりました。友達も泣いてくれて。そのあと、何もなかったように食事を作る私がいました」。
 それまでは、言われた方も迷惑と思い、話してはいけない気がしていたという。しかし、この体験以降、話を聞くだけでも力になれることを実感。体験者だからこそ、相づちや一言が相手の力になることも知った。


誰にも必要なストレス回避

 一方で、見えていなくても、娘の状態を感じ取った母に、「自分がいれば逸美はダメになる」と思わせてしまい病状が悪化したのではないか…と悔やんでもいる。それは、自分自身が無理をしすぎた結果だと語る。
 自分の限界点を知り、そこを越えたと気付いたら手段を考えるべきだと大沢さんは言う。
「今かな?と感じるときがあるはずなんです。本人や家族に冷たくひどい態度をとってしまったとか、人が変わってしまったような瞬間などが、限界を越えたサインだと思うんです。100%頑張りましたと言える私はいるけれど、介護される側にまでストレスをかけてしまっては満点とは言えませんよね」。


性格は、まるで水と油。母とはケンカ友達。
今は「似ている」と思えることもあるとか。

 今だったらこういうことができた…ということはあるという大沢さん。ヘルパーを諦めないで、合う人が見つかるまでお願いするべきだったということを一番に挙げた。母を見放してしまうような気がして、施設への入居は考えなかったという。
「今は施設も様変わりしていますから、納得いくところが見つかるまで探してほしいですね。介護は一人では絶対に無理。どうしたってプロの手は必要です。もちろんプロに任せてしまえば安心ということではなく、プロの力と家族の(綺麗な言葉を使えば)愛の力を融合させるのが理想でしょうね」。
 2002年、母・幸子さんは72歳で永眠した。
「一人の寂しさは感じないんですけど、死ぬときは一人で死にたくないという強い思いがありますね。私の腕の中で息を引き取った母を見て、家族がいるって死ぬときにいいな〜と思いましたから。母は幸せ者です」




大沢 逸美 (おおさわ いつみ)

profile
1966年生まれ 北海道出身
16歳の時にホリプロタレントスカウトキャラバンでグランプリを受賞、ドラマ、舞台へと活動の幅を広げる。現在は女優業のかたわら、実母の介護経験に基づいた講演活動も行っている。

<主な出演作>
日本テレビ系 「恋のから騒ぎドラマスペシャル」 ・
映画 「ブタがいた教室」 (11月1日公開)など

<著   書>
『お母さん、ごめんね』 (アスキー・コミュニケーションズ)

 
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